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寺内大輔の日記

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初恋
 初恋(石川啄木作詞・越谷達之助作曲)

 砂山の砂に
 砂に腹這い
 初恋のいたみを
 遠くおもい出ずる日

 有名なこの歌曲(私が中学生の頃には音楽の教科書にも載っていた),長きに渡り多くの人に愛唱されているのだが,私はこの曲の持つフレーズが奇妙に感じられてならない。

 私はこれまで,その奇妙さについて何人かの友人に話したことがあるのだが,理解が得られず「え?何で?全然不自然には感じないよ。良い曲じゃん」などと言われることもある。だが,これは好みの違いではなく,フレーズの捉え方の違いではないだろうか。今回はそれについて詳しく述べてみたい。



 砂山の砂に
(普通のフレーズ。可もなく不可もなく)

 砂に腹這い
(前のフレーズを受けている。前のフレーズにくらべ,跳躍も控えめで少し落ち着いた雰囲気)

 初恋のいたみを
(ここで一気に盛り上がる。ここまでに関しては,よくある展開)

 遠くおもい
(「初恋のいたみを」で盛り上がった後,「遠く」で落ち着くが,その後の「おもい」で思わせぶりに続く感じを醸し出す。この後音楽がどうなるのか,期待が高まる)

 出ずる日
(え?それで終わり?「おもい」の箇所の思わせぶりなフレーズは何だったの?)


 つまり,「遠くおもい」の箇所のフレーズが持つエネルギーが,行き先がないまま,あまりにもあっさり終わってしまうのである。特に「遠く」に比べてその直後の「おもい」の方がフレーズの持つエネルギーが高い(音高も少し上である)ため,自然と「フレーズのエネルギーの方向」を作り出しているのが問題なのだろう。それは聴き手に期待感を促し,「出ずる日」でストーンと足下をすくわれた感じになる(不自然に無理矢理終わらせた感じがする)。

 それはまるで,有名な替え歌「赤い靴,履いてたら,脱げた」(画像)と似た脱力感に近い。だが,「赤い靴」の替え歌は,そういった意外性を意図しているのが明らかなのだが,「初恋」の場合は,おそらく意図されていない。仮にそれが意図されたものだとしても,「遠くおもい出ずる日」の箇所でそのような意外性を意図する必然性は全く感じられない。

 私は,この曲を初めて聴いた時から現在にいたるまで,フレーズの構築に違和感を抱いてきた。やや乱暴な言葉になってしまうが,何度聴いても,どんな素晴らしい声楽家が歌うのを聴いても「フレーズの組み立てに失敗した,下手な作曲」に聴こえてしまうのである。


 ご意見のある方は,ぜひお聞かせください。



追記:
ちなみに,石川啄木によるオリジナルの詩は

砂山の
砂に腹這い
初恋の
痛みをとおく
おもひいずる日

という,(5,7,5,7,7)の短歌の形式で書かれている。
歌曲において,「砂に」という言葉が2度繰り返されているのは,作曲家の越谷達之助によるものであろう。

| 日本歌曲 | 09:29 | - | - |
藤井清水の歌曲
 藤井清水(ふじい きよみ,1889-1944)という作曲家がいる。日本の民謡の研究をし,日本歌曲を多く手がけた作曲家である。
 彼の作品は奇妙だ。クレイジーだとさえ思う。言葉で説明するのは難しいが,旋律といい和声といいフレーズ感といい,聴いてみても譜面を見てみても「なんでそうなるの?」とつっこみたくなるようなことが多い。決して悪口ではない。褒めているのである。私は彼の音楽に大きな魅力を感じている。

 彼は日本の音楽史の中ではさほど重要視されていないが,私はもっと注目されても良いのではないかと思っている。同時代に活躍していた山田耕筰や本居長世,中山晋平といった作曲家達の日本歌曲に比べると,極めて前衛的でエキセントリックだからだ。当時,「新し過ぎて受けなかった」ことは容易に想像できる(現代でさえ,彼の音楽は奇妙に響くのだから)。
 
 ちなみに,彼は,私と同じ広島県呉市出身である。「呉市歌」を作曲したのも彼であった(正直なところ,私は呉市歌はあまり好きではない。彼の音楽に見られる「奇妙さ」があまり感じられないからだ。もしかしたら,作曲にあたり「呉市民の歌」として多くの方に親しんでもらえるよう,あまり大胆になれなかったのかもしれない)。
 呉市では,ここ数年,藤井清水を「呉市が生んだ偉大な作曲家」として宣伝しているようだ。楽譜集「藤井清水歌曲集」の出版にも呉市が関わっていたようだし(数年前は呉市役所で販売しており,私もそこで購入した。今もそこで購入できるのかどうかは知らない),「藤井清水音楽祭」と題された音楽イベントも「呉市のイベント」として毎年催されている。
 私は,こういった顕彰活動の様子に対して,違和感を覚えることがある。理由のひとつは,「郷土の作曲家」として紹介される彼の音楽が,私自身が持つ藤井清水に対するイメージとずれていることだ。呉市のイベントなどでも,「信田の薮」などのような,比較的「一般受けしそうな歌曲」が選ばれていることが多い。「信田の薮」は確かに美しい歌曲ではあるが,彼の歌曲全体を見渡してみれば,むしろそのような作品の方が少ない。彼の音楽の「奇妙さ」に魅力を感じている私としては,もっと彼らしさが顕われている歌曲にスポットを当てて欲しいと思ってしまう(念のために強調しておくが,私は「奇妙な音楽の方が,美しい音楽よりも良い」と言いたいわけではない。彼の個性的な音楽の魅力に注目して欲しいのである)。

 また,彼を紹介する文章には,「山田耕筰は,藤井清水のことを『自分がドイツで5年間もかかって苦心研究したことを、藤井君は日本にいて平気でやっている。』と大変高く評価していた」というエピソードが書かれていることが多い。もちろん,エピソードのひとつとして紹介するのは結構なのだが,時折,その紹介のされ方から「山田耕筰のような有名な作曲家でさえ,藤井清水を評価していたんですよ。だから藤井清水はすごい人なんですよ」といったニュアンスを感じることもあり,そんな時には「山田耕筰の方が藤井清水より上」という意識があるように感じられ,あまり良い気持ちがしない。
 もちろん,山田耕筰と藤井清水ではどちらが上か,などということは簡単には言えない。だが,少なくとも私にとっては,山田耕筰よりも藤井清水の音楽の方がずっと興味深いし,もっと言えば,同時代の日本人作曲家達の中では抜きん出て面白い作曲家だと感じている。
 
藤井清水
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%B8%85%E6%B0%B4

藤井清水の会
http://www.3355.jp/kiyominokai/
| 日本歌曲 | 22:48 | - | - |